Thu.
27
Dec,2018
杉本 恭子
投稿者:杉本 恭子
(ライター)

2018年12月27日

「文章の音楽性」をめぐる座談会
#02 ―文章はレコード盤である―
話し手:西村佳哲さん、安藤聡さん、菅原良美さん/聞き手:真鍋太一

ものさす学習モード

杉本 恭子
投稿者:杉本 恭子(ライター)

昨日の前編につづき、徳島・神山町にて、夜をまたいで行われた「文章の音楽性」をめぐる座談会、後編です。

飲み会から「文体」座談会になだれ込んでしまった翌朝、ふたたび「かま屋」に同じ顔ぶれが集合。

おだやかに朝ごはんを食べ終えると、西村佳哲さんが「それじゃ、いきましょうか」と場のスイッチを座談会へと切り替えました。

今回は、「Web料理通信」に連載されている真鍋太一さんの記事や川内有緒さんのエッセイを題材にしながら、「文章とは何か」「文章を書くときに、書き手は何をしているのか」を、西村さんが語り下ろしてくださいました。

ときおり、声を発するふたりの編集者のオピニオンにも注目。すべての文章を綴る人たちへ、とりわけ書くことに悩んでいる最中の人たちにお届けしたい“レコード”です。

話し手:西村佳哲さんプロフィール
建築分野を経て、"つくる・書く・教える"の三種類のお仕事を主軸に活動。ここ2年ほど、町と立ち上げた「神山つなぐ公社」の仕事にドップリ。

話し手:安藤聡さんプロフィール
書籍編集者。翔泳社→晶文社→バジリコ→技術評論社を経て、2013年より晶文社に復帰。西村佳哲さんの処女作『自分の仕事をつくる』も手がけた。

話し手:菅原良美さんプロフィール
Webマガジン編集者。雑誌『ecocolo』の編集を経て、現在は「移住のニュー・スタンダード」を掲げるWebマガジン「雛形」副編集長。

書き手:杉本恭子プロフィール
フリーランスのライター。2016年秋より「雛形」にて、神山に移り住んだ女性たちにインタビューをする「かみやまの娘たち」を連載中。今回は、真鍋さんとともに座談会を共謀。

聞き手:真鍋太一プロフィール
モノサス プロデュース部 部長。2016年4月より、神山町と「神山つなぐ公社」が共同で立ち上げた、「㈱フードハブ・プロジェクト」の支配人(COO)も務める。

西村さん、初めて「文章の話」をする

真鍋

西村さんは『自分の仕事をつくる(晶文社/ちくま文庫)』を書きはじめたとき、物書きではなかったわけですよね。でも、書きはじめて、今も文章を書いている。そして、先日は「書くことは音楽みたいなんだよね」とおっしゃっていました。

今日はあらためて、西村さんの文章の音楽性について、聴いてみたいと思います。

西村

わかりました。あのー、文章の書き方を学びたいって、ときどきリクエストがあるんですよ。インタビューのワークショップをやっているじゃない? あれって、聴くところで止まっていて、書くところはやっていないんです。

でもねえ、書くほうはねえ、なんていうのかなあ。

本当に独学でやってきたし、文章に関しては自分が本当に突き詰めていることではない。それに、文体ってすごく生理的なものなので言語化しにくい。だから、ずっとやってこなかったんだけど、今日は初めて文章の話をしてみようと思います。

真鍋

ほんとにすみません!よろしくお願いします。

西村

しかも、編集者ふたりがいる前で話すのが、すごいプレッシャーです。真鍋さんが文章のことで何かつかみたいなら、お二人にも来ていただいてみんなで話すといいんじゃないかとは言ったけどさ、記事にするとは聴いていなかったから。

真鍋

この内容、みんなも知りたいだろうなあと思って。ちょっと怒ってます……?

西村

いや、怒ってはいないんですが。えーっとね。昨夜、家に帰ってから「Web料理通信」の真鍋さんの連載を読んでみました。この文章をもっと気持ちよく、もっと上手く書けるようになりたいんですよね? 今、「“小さな食料政策” 進行中」の 第2回「料理人の可能性を社会にひらく」のURLを、メールでみんなに送ります。各自、スマートフォンで開いて見てください。

真鍋

ま、まさか、自分の文章をベースに話されるとは思っていなかった……(汗)。

文章を読む=レコード盤に針を落とす

西村

真鍋さんの「Web料理通信」の文章、読めるし、ちゃんと機能はしていると思う。これを読んで、「こうしたほうが良くなる」という言い方を、僕はできないんですよ、名文指導とかをしているわけではないので。でも、「自分だったらどうするか」を言うことはできます。そういうつもりで聞いてください。

真鍋

はい。お願いします。

西村

具体的にいきましょう。「私の肩書き」の書きはじめの部分、ね。


http://r-tsushin.com/people/innovator/manabe_taichi2.html より

西村

冒頭の「『真鍋さんって、何をしている人かよくわからないですね』と言われる」は、僕だったら「真鍋さんって、」をトル。この文章の書き手が、真鍋さんであることは自明なので。

それに、「何をしている人かよくわからないですね」という話から始まるほうが、読み手が「え?何の話?」と頭を運動させながら入っていけるので、僕は面白くなると思う。

真鍋

西村さんは、相手の思考性を含めながら、文章を書いているということですね。

西村

うん。頭や心のなかの活動を一緒につくっていくというか。文章って、レコード盤みたいなものなわけ。「読む」ことで針を落としていくと、僕らが書いた音楽が、読み手の頭や心のなかで再生されていく。そのときに、ある「感じ」が生まれるわけですよ。書くことで、その「感じ」をつくっていくことをしているんだと思う。

真鍋

文章って、何か伝えたいことがあるから書くのではないんですか?

西村

文章には、意味的な世界と感覚的な世界の両方があると思う。歌になるには、メロディを奏でる感覚的な世界が必要になります。意味を知りたいだけなら、歌詞カードを見るだけで充分ですよね。たとえば箇条書きとか。内容が伝わればいいのなら、曲(文章)にはなっていなくていいわけです。

文章に対する「生理」があれば書ける

西村

ここまでのところ、安藤さんはどう思われますか?

安藤

夏目漱石は『文学論(岩波文庫)』の冒頭で、「Fは焦点的印象又は観念を意味し、fはこれに附着する情緒を意味す」と言っています。文章を読んで心が動かされるということがあるとしたら、情報だけではなくてプラスαの何かが必要で。情報に感覚が乗っかってはじめて「伝わる」というお話ですよね。

西村

うん。文章を読む人は、内容と感覚の両方を受け取るんだと思う。

阪神・淡路大震災の後に、たくさんの人が自分の体験したことを文章に残しています。文章に関しては素人の人たちの文章だから、漢字が多すぎたり1センテンスが長過ぎたり、作文上の課題はいくらでも見える。だけど、どれも最後まで読めてしまうんだよね。そのことについてすごく詳しくて、感覚がたっぷり入っているからです。

真鍋

じゃあ逆に、感覚の部分、プラスαの部分がない文章もあるということですね。

西村

たとえば、マニュアル文書とか行政文書には、感覚の部分はないですよね。

じゃあ、続きのセンテンスにいきたいと思います。「説明するのも手間なので、わりとスルーするのだけど、個人的には、これからの世の中ひとつの肩書きで生きていけるほど甘くないと思っている」。「の」って音が5回出て来る。多いよね。
真鍋

たしかに。

西村

僕だったら「の」を「を」や「が」に変えて調整すると思う。

歌と同じで、歌詞だけではなくて、曲があって、アレンジがあって、歌い方や演奏のしかたもあるというか。だから、同じ音が何度も出て来て曲が単調になってしまうと、自分の心がすごく動いていることが文章に現れなくなってしまうわけです。

真鍋さんは、嫌いな文章ってある?「これ、嫌いだからもう読めない」という文章は。

真鍋

かなり、ありますね。何ページか読んで「これは絶対に読めない」という本。

西村

「これは違う」というものがハッキリしていれば、自分の行きたい方向がわかる。自分のなかに文章に対する生理があるということだから、書けると思います。ただ、現時点ではあまり推敲をしていない。あるいは、推敲するポイントをまだ見出せていないのかなと思います。

推敲とは「文章のカンナ掛け」である

真鍋

推敲って、具体的にどういうことをするんですか?

西村

文章の「てにをは」を変えていったり、長いセンテンスを句読点や改行で区切ってリズムをつくったり。「カンナ掛け」と呼ぶ人もいます。僕は、カンナ掛けに入ると楽しくて、いくらでも掛けていたいタイプ。一回提出した原稿を、またちょっと直して……とやって、編集者さんに嫌がられます。本が出た後も、変えたいくらいです。その一方で、万年筆で一気に書き下ろす作家さんもいます。

真鍋

本当に才能がある、奏でられる人はそれが一番いいのかもしれない。

西村

要は、どういう方法が自分の感覚や感情をより乗せやすいのか、だと思う。

菅原

西村さんの言う「カンナ掛け」というのは、文章をきれいに整えていくということだけではなくて、読み手との距離感をつくっていく作業なのかなと思います。

ばーっと書いて、心臓というか、文章の核となる部分をまずつくって、「これを誰に読んでもらうか」を考える。全体の構成を考えたりしながら、読み手との関係性をつくっていくのはすごく楽しい作業でもあると思うんです。やっと「自分が書いている」ということに近づけるというか。

西村

そうそうそう!

真鍋

ステップがあるということですよね。文章の心臓部分をばーっと書き出して、その次に距離感を調整していく。私に関しては、ばーっと書いた後に、カンナを掛ける時間もなく提出してしまっています。

菅原

そんなに時間をかける作業ということでもないし必要なことですよ。やらないと、文章を書いたっていうことにならないくらいに。

真鍋

厳しい!(笑)

読み手との「距離感」をどうつくるか?

西村

続いて、読み手との距離感について話したいと思います。真鍋さんの文章は、辛口で言うとね、なんていうのかな、えーっと。

真鍋

遠慮なく、ビシッとお願いします。

西村

失礼に響いちゃうかもしれないんですけど、なんか真鍋さんの側に文章がある感じがする。

真鍋

私の側に、文章がある感じ……?

西村

ある人がね、「宮崎駿とかマイケル・ジャクソンって、ここ(顔前)まで迫ってくるじゃないですか?」って言ったとき、「めちゃくちゃわかる!」と思ったんです。たしかに、あの人たちはここまで、受け手の真ん前までワッと来る。つくり手の手元でくちゃくちゃやっているところに「まあ、来てもいいですよ」という感じではない。

真鍋

私の場合は、文章も私自身も読み手からの距離があるということですか?

西村

ふだんの真鍋さんがどうかは別として、文章に関して言うと感情や感覚があまり動いていない。人と共有したいという感じよりは、説明して「まあ、読んでもらえる?」って感じかな。

真鍋

いやあ、そういう感じだと思います。なんだろうなあ?自分のなかから出ていないんですよね。自分の思考プロセスにつきあってもらう結果になっているんだろうな、というのはあります。

西村

思考を書いていると説明的になっていくから、書き手もつまらなくなるんです。僕の場合はね。やっぱり、自分の感覚がたっぷり入っているところを触りながらの方が書きやすい。「これは、自分だけのことじゃないな」「少なからぬ人々のことじゃない?」みたいに書いています。マイケル・ジャクソンや宮崎駿ほどじゃないけど、もうちょっとみんなの方に行く感覚です。

真鍋

真ん中よりも、ちょっと読み手に近い感じですね。

西村

僕の感覚なので、押しつけるものではないけど、「ねえ?」と話しかけるみたいな感じかな。

安藤

読み手との距離感みたいなものは、意識していたほうが伝わりやすくなるでしょうね。

読み手の側に近づくことを意識して書く人もいるだろうし、徹底的にモノローグとして自分の立ち位置をずーっと掘り下げて書く人もいると思います。ニュートラルな中間地点を見ているのか、ダイレクトに相手に届けようとするのか。読み手との距離の取り方は、書き手その人や書く内容のジャンルともつながりがある気がします。

文章のなかに「読み手を招待する」空間をつくる

西村

それで、また真鍋さんの文章に戻ります。

「何をしている人かよくわからない」とはじまって、次に「自分でもわからない」あるいは「オレはわかってるんだけど!」みたいな展開があるかというと、そうではなくて。「eatrip」の野村友里さんに「じゃあ、真鍋くんは支配人ね」と言われて、悩んだのちに腑に落ちるという話がくる。ロケットが余分に、2段になっているというか。

真鍋

はいはい。「私の肩書きは支配人」から入ってもいいということですね。

西村

うん。そうしたら、「支配人ね」と投げかけられて、「えー?」と思っていた真鍋さんが、「『支』えて気を『配』る」という文字の並びに納得するまでの心の動きを、読み手は一緒に追えるじゃない?

パブリックイメージとは違う意味での「支配人」に着地するまでに、いろんな出来事があり、真鍋さんのなかに運動があったわけだよね?

真鍋

ありました。

西村

そこにはたっぷり感覚が入っているよね。当時を思い出して、蝶ネクタイをつけて「支配人ってなんなんだろう?」と思っていた感じが文章にも入っていると思います。

真鍋

入っています。

西村

よく感じていないことについては書きようがないんです。描写するものがない。体験が乏しいから。たっぷり見ていて「あの紅葉、あの葉っぱ、あの日当り」みたいな感じで、内的な世界にどさどさどさっと入ってきているものがたっぷりあればいくらでも描写していける。

昨夜、「なぜ、星野道夫さんは文章が上手なのか?」って話をしていたけれど、ものすごく見て感じちゃっているから、描写することがたっぷりあるということだと思います。自分が感覚的に詳しい世界に人をご招待する。案内することで、共有できる空間をつくることが、文章を書くということなんじゃないかな。

安藤

星野さんのたとえはすごくわかりやすいし、とても大事な話だと思います。

昨夜は「視点」という話も出てきましたが、「どう見るか」というのも大事なわけです。人によっては解像度と呼んだりしますが、より高い解像度で見える人がものを書ける。低解像度だとただの黒い塊に見えるものが、高解像度では全然違う世界に見えたりしますよね。

どの視点から、どういう解像度で見るかによって、ひとつのものごとに対する解釈や説明のしかたに、バリエーションが広がる可能性も出てくると思うんです。

みんなで、文章の「音楽性」を鑑賞する

西村

もうひとつ、文章について語りたい。川内有緒さんの『パリでメシを食う(幻冬舎文庫)』というエッセイです。「はじめに」の冒頭を読んでみますね。


 日曜日の朝、サンジェルマン教会の鐘の音が街に響き渡る。
 その時間、私はたいていバゲットとカフェオレだけの朝ごはんを食べているか、まだ布団の中でまどろんでいる。
「もう鐘が鳴る時間か」
 習慣のように、古い木枠の窓からぼんやりと小道を見下ろす。
 カフェのウェイターが入り口に立ち、お客さんを待っている。小さな犬を連れた女性が、ゆったりと歩いている。若い観光客のカップルが立ち止まって地図を広げている。私が何年間も眺め続けた、ありきたりの風景。頭に浮かぶことも、たいてい同じ。
 そう、そう、パリに住んでいるんだったなあ。
 ふだんは意識しない不思議な人生の成り行きを思い出したあと、またいつもの日常に戻る。この町に流れ着いた、たくさんの日本人と同じように」。
―― 川内有緒(著)『パリでメシを食う』はじめに 5ページ 幻冬社 2010

ナチュラルにうまいなぁ!と思います。この文章には、「音楽」がわかりやすく出ています。改行の入れ方も上手だし、拍の取り方もいい。まずは、語尾を見ていきましょう。


 日曜日の朝、サンジェルマン教会の鐘の音が街に響き渡る
 その時間、私はたいていバゲットとカフェオレだけの朝ごはんを食べているか、まだ布団の中でまどろんでいる
「もう鐘が鳴る時間か」
 習慣のように、古い木枠の窓からぼんやりと小道を見下ろす
 カフェのウェイターが入り口に立ち、お客さんを待っている。小さな犬を連れた女性が、ゆったりと歩いている。若い観光客のカップルが立ち止まって地図を広げている。私が何年間も眺め続けた、ありきたりの風景。頭に浮かぶことも、たいてい同じ
 そう、そう、パリに住んでいるんだったなあ
 ふだんは意識しない不思議な人生の成り行きを思い出したあと、またいつもの日常に戻る。この町に流れ着いた、たくさんの日本人と同じように」。

「渡る/いる/見下ろす/待っている/歩いている/広げている/風景/同じ/だったなあ/戻る/同じように」。

母音だけを拾ってみると、「う/う/う/う/う/う/い/う/い/う/あ/う/い」です。

ずっと「う」で終っているでしょう。韻律ですよ。韻を踏んでいる言葉って、楽しいじゃない? 本当に歌なんですよ。「る/る/す/る/る/る」と続いた後に、「い」「う」「あ」というところにくると、「あー!」って窓が開いて晴れる感じがあるじゃない?

で、一行アキがあって「思えば、昔はパリなんてまるで興味がなかった。綺麗なだけでツンと気取った街だろうと想像していた」と次のブロックに続く。今度は「た」の世界へと風景が変わっていく。

事実確認として、文章としてどう歌われているのかを共有したかったので読んでもらいました。こうやって示すと、作文のテクニックみたいに聞こえるかもしれないけど、彼女はテクニカルにはやっていないと思う。

真鍋

これを意識的に真似て設計しようとすると、気持ちの悪い文章になりそうですね。

西村

この人はごく自然にやっていると思う。なんかこう、生理的なものなんだよね。

自分の体になれば「文体」が生まれてくる

西村

音楽家の友人達は、口を揃えて「楽曲構成やアレンジは教えられるけれど、作曲は教えられない」って言うんです。たとえば、Aメロ、Bメロ、転調してCメロみたいな楽曲構成の型の面白さとか、そういうことは勉強できる。アレンジについても、滔々と語れることがあると思うんだけど、メロディに関してはそんなに語れないと思うんですよ。

バート・バカラックの曲は、どれでも1小節聴いたら「バカラックだ」とわかる。村上春樹の小説も、1ページも読めばわかると思う。あのね、その人の持っている文体って道路に似ているの。

真鍋

ど、道路ですか?

西村

甲州街道って、どこでポンって入っても「あ、甲州街道だ」ってわかる。中山道も「あ、中山道だ」って感じがするんだよね。国道一号線は、どこで入っても国道一号線だよ。昔の街道ってそんな感じがある。

安藤

へええー。

西村

その道らしさっていうものを、その道自身が持っているんだよね。文章もそれと似ていると思う。「文体」っていうぐらいだから「体」なんだよね。だから、これを教えることはできないんだけど、吸収するやり方はあります。ひとつは「コピーすること」。

トレーニング好きな書き手は、自分が好きな文体を持つ人の本を丸ごと一冊書き写したりもします。僕はやっていないけれど、その分音楽を聴いてきたのでそこにもらっている感じ。あと、本以上に漫画も読んできています。漫画のネームは、意味と感覚の伝え方において、デザインプロダクトとしてよく出来ています。とりわけ、昔の少女漫画は素晴らしい。大島弓子とか、岩館真理子とか、萩尾望都とか……。

真鍋

少女漫画まで、手を広げているとは知りませんでした。

西村

自分は、音楽や漫画にたっぷり浸っていたから、そこからもらっています。株式会社オープンAの馬場正尊さんは、文章を書く前にスポーツ雑誌の『Number』を読むと話していた。彼はサッカーが好きで、「Number」の文章はグイグイ来るから、ぐわーっ!と書くエネルギーが高まるんだって。あと、伊藤ガビンさんは、とにかくなんでもいいからダラダラ書きはじめて、するとだんだん乗ってきて「書いたー!」って感じになる。2000字くらい書いて、最初の1000字くらい捨てる、みたいな書き方をしていると話していた。

みんな、自分の「体」になるということを、いろんなやり方でやっているんだと思う。

自分の体に合う「VOICE」を発見しよう

安藤

今の話を聞いていて思い出したのですが、アメリカのほうでは「自分のヴォイスを発見できれば書けるようになる」という言い方があります。それぞれのヴォイスは自分の体とすごく関係があるだろうし、音楽とテキストには重なる部分がありそうです。

菅原

『Number』を読んでから書く、というのはすごくわかります。スポーツは肉体的な表現なので、動きとか勢いとか、目に見えないものを言葉にしていると思う。エモーショナルですよね。

私も、一冊まるごとではないけど、好きな文章の一部を書き写すことはあります。「なぜこの文章が好きなのか」「なぜ、自分には書けないのか」がすごくわかるんですよ。できないことに気づくことが大事だし、「もっとこうしたい」という技術にもつながるのかなと思っています。

西村

見えるようになってしまえば、自分の文章も見えてくるので直せるようになると思います。今、真鍋さんは、デザインや編集、プレゼンテーション、空間・サービスなどに関してはすごく見えていて。自然にいろんなことを調整していると思うんです。

もし、文章に関してはまだなのだとしたら、好きな文章を読む時に、書き写すような気持ちで臨む方法もあると思う。どこで改行をしているのか、句読点の打ち方、1センテンスの長さはどうなっているのか、漢字をどのくらいつかっているのか? そういうところを意識しながら読むと、見えるようになってくると思います。

杉本

声に出して読むのもいいと思います。声に出すと、意味ではなくて音としての文章を耳で理解できるので。自分が書く原稿も、提出前には声に出して読んでいます。語尾の単調さとか、見つけやすくなると思います。

菅原

変なところがすぐわかるよね。

安藤

最終的に音読で仕上げる人は多いですね。翻訳をやっている人も音読するそうですよ。

西村

なるほど、今度やってみよう。

真鍋

みなさん、ありがとうございました。
書くと自分の思考を整理できるし、次にやるべきことを見渡せるんですよ。だから、書き続けたいんだけど、まあまあキツいなあと思っていて。音読、やってみます。カンナもしっかり掛けたいと思います。


みなさん、ありがとうございました!

いやー、本当にぜいたくな時間でした。座談会だけでなく、文字起こしから原稿執筆までのすべての時間が。これほどライター冥利につきる仕事ってあるでしょうか(この後、西村さんと2人の編集者に原稿確認されるという超重量級プレッシャーを受けたことも含めて!)。

ライターって、毎日何千、何万字もの言葉をキーボードで叩いて何かを書いています。でも、意外と自分自身の「書くこと」を言葉にしていない。「書くとはどういうことか?」「なぜ、書くのか」など、「書く」をテーマに語り合うことも少ないんですよね。

ライターだけではないですよね。今はスマートフォンやパソコンで、メールやLINEやメッセンジャーで、みんなが何かを書いて誰かに届けています。これだけ「書く人」が増えているのに対して、「書くこと」について考える機会のほうは、むしろ不足しているんじゃないかな。

日常にどんな言葉があるのかによって、世界は美しくもやさしくもなるし、残酷にも暴力的にもなります。とりもなおさず、言葉はわたしたちの世界をつくっているもの。「どんな言葉をつむぎたいか?」は「どんな世界で生きていたいのか?」と、結び合っていると思うのです。

座談会後に公開された、真鍋さんの連載「『“小さな食料政策” 進行中。第4回『Post-Truth, Post-Food|ポスト真実、ポスト食』」には、「日常の食」というキーワードがありました。この座談会記事を通して「日常の言葉」、そして真鍋さんの連載を読みながら「日常の食」に思いを巡らせてもらえたら、と願ってやみません。

『“小さな食料政策” 進行中。第4回『Post-Truth, Post-Food|ポスト真実、ポスト食』」
http://r-tsushin.com/people/innovator/manabe_taichi4.html

おまけ

西村さんが「村上さんも文章の音楽性についてとうとうと書いていますよ、どこかで。小澤征爾さんとの対談本なんかにたっぷり出てくるんじゃないかな、読んでないけど!」と言っていたので、さっそく『小澤征爾さんと、音楽について話をする』(小澤征爾×村上春樹、新潮社)を読んでみました。

西村さん、お察しのとおり「文章と音楽の関係」というインターリュードがありましたよ!という報告もかねて少しだけ引用します。

言葉の組み合わせ、センテンスの組み合わせ、パラグラフの組み合わせ、硬軟・軽重の組み合わせ、均衡と不均衡の組み合わせ、句読点の組み合わせ、トーンの組み合わせによってリズムが出てきます。ポリリズムと言ってもいいかもしれない。音楽と同じです。
小澤征爾・村上春樹(著)『小澤征爾さんと、音楽について話をする』  新潮社 2014

この投稿を書いた人

杉本 恭子

杉本 恭子(すぎもと きょうこ)ライター

フリーランスのライター。2016年秋より「雛形」にて、神山に移り住んだ女性たちにインタビューをする「かみやまの娘たち」を連載中。

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